2009年12月30日水曜日

頼りになるDropbox



Evernoteに引き続き、今回紹介するのはDropboxです。

これも今や非常に有名になったツールです。Evernoteとともに、今の私のデジタルライフに無くてはならない存在となっています。

Dropboxはオンラインストレージのアプリケーションです。

PCを複数所有することが珍しくなくなってきた昨今、オンラインストレージは必携のツールと言えるのではないでしょうか。もう最近ではUSBのフラッシュメモリは持ち歩く必要がなくなってきました。

オンラインストレージにはWindows Live SkyDriveやFirestorage、iDisk、SugerSyncなど様々なものがありますが、その中でもDropboxは群を抜いた存在と言えます。

Dropboxの優れた点は、大容量であること、ファイル削除のundoが可能であること、ローカルでも使用可能であることの3つであると私は思います。

容量は2GB(無料)、50GB(月10ドル)、100GB(月20ドル)と選択可能で、私は50GBの有料アカウントを取得しています。
今は大容量のバックアップ以外の全てのファイルをDropbox内に入れていますが、まだまだ容量には余裕があります。

また、Dropboxに一度アップロードされたものは削除や上書き保存をしても、ネット上でundoすることができ、間違って大切なファイルが失われた場合にも、難なく必要なファイルにアクセスすることができるのは他のソフトにない優れた点であると思います。
この機能があることで、私は常に最新のファイルだけをDropboxに残せば良いようになりました。
それまでは大切なファイルを少しでも更新した際に、新たに名前をつけて保存していましたが、Dropboxに出会ったことで、このような煩雑な作業から解放されました。

また、Evernoteと同様にネット上だけでなくローカルでも使える点も良いです。ほとんど全てのファイルをDropboxに保存しているので、ネット環境にないときにファイルを開くときにこのローカル機能は重宝します。

他にもアップロード・ダウンロードの速度が速いこと、iPhoneのアプリとも容易に同期できることなどもDropboxに依存する理由の一つとなっています。

これらのソフトはセキュリティ面での不安がないことはないのですが、使いだして1年経ったいまでも不満や危機的状況が何もないので、これからも使い続けると思います。

人の話を聞くこと


ここ数年、年末に散髪するのが習慣となっています。

私が通う美容室は京都にあるため、なかなか行く機会がないのですが、何かの用事で周辺地域に立ち寄った際には四条にある美容室に行き、髪を切ってもらっています。

いつも驚かされるのは、美容師さんの記憶力です。

私は散髪の際に美容師さんと話すのが好きなのですが、私が過去に話した内容はおおよそ覚えているのです。

会うのが半年ぶり、1年ぶりでも同様です。

何か秘訣はあるのかと尋ねると、全くないとの回答でした。

ともあれ、自分の発信した内容が他者に受信され、それが長期間にわたって記憶されているというのは幸福なことだと思います。

そのように真剣に聞いてもらえているとなると、必然的に話す内容や話し方にも影響を及ぼします。話し手が良い意味での緊張感をもって聞き手に向かえるようになると思います。

やはり人と会話するときの姿勢というものは重要ですね。

美容師さんのように長期間におよぶ記憶の披露も効果的ですが、そこまで記憶力のよくないわたしは、いつ何時どこででもメモを携帯しており、必要に応じて話し手の前でメモを取るように心がけています。

それは、記録するという行為が重要であることも当然ですが、話し手に「真剣に聞いている」という姿勢を見せるためでもあります。

話し手を真剣にさせ、有益な情報を引き出すためには「常にメモ」は必要であると思います。

2009年12月26日土曜日

素晴らしきEvernote


今日は、ここ1年ぐらいお世話になっているソフト、Evernoteについて思うところを述べていきたいと思います。

このEvernoteは端的に言えば、高機能のオンラインメモソフトです。このサービスの詳細は他のブログ等でも紹介されているのでわざわざ繰り返すことはしません。

私は、出先でMacBook Pro、移動中はiPhone、自宅ではiMacを使っているのですが、その三者のEvernoteが常に同期されているので、非常に使い勝手がよいです。

また、オフライン使用にも対応しているためネット環境が整備されていない所でも、保存しておいたデータには容易にアクセスできるのも素晴らしい点の一つです。

メモの形態も、テキストから写真や音声と多様で、いかなる情報も逃さない優れものです。

このように非常に使い勝手がよいEvernoteの最も優れた点は、高い文字認識技術と連動した検索機能であると思います。

Evernoteにはテキストデータの検索はもちろんのこと、手書きの文字をも検索対象にできてしまうほどの高精度の文字認識技術が搭載されています。日本語は未だに手書き文字検索はできませんが(2010年夏頃からできるとの噂があります)、英語の認識精度は凄まじいものがあります。

私は学術論文を全てScansnapで読み込み、それをEvernoteに流しているのですが、検索したい文字列を打ち込むだけで1000近くあるメモの中から該当する箇所を瞬時に示してくれるため、大変重宝しています。

今では思いついたことやちょっとしたメモだけでなく、ネット上の気になる記事やアナログの論文もすべてEvernoteに入れているため、これなしの生活は想像できないほどです。

あらゆる情報をこの中に入れてしまえば、特に整理などしなくても検索一発で必要な情報に瞬時にアクセスできるというのは感動的ですらあります。

しかし、難点もいくつかあります。

一つは、前述の通り日本語検索機能が英語に比べ、極端に弱いことです。これに関しては、Evernoteの製作者も日本のユーザーを意識していると述べているため、近い将来に解決すると信じています。

二つ目は、月間の容量に関するものです。私は有料のプレミアムアカウントを持っているのですが、それでも月間500MBしかアップロードできません。ウェブクリップなどを保存するだけならこれでも充分なのでしょうが、私のように論文をPDF化してアップロードしているとあっと言う間に月間アップロードの限界に達してしまいます。解決法としては、論文のファイルを入れたノートをシンクロさせずにローカルにしておけばよいのしょうが、それだとどこからでもアクセスできるEvernoteのよさが半減してしまうのです。

三つ目は、ファイル一つの容量についてです。 現在のところ1ファイルで25MBを超えるものはEvernoteに入れることができません。このようなリミッターの存在はヘビーユーザーの私にとっては、かなり煩わしいものです。

四つ目は、iPhoneでの使用があまりサクサクいかないことです。これは私がiPhone 3G 8GBを使っているので仕方ないかもしれませんが、もう少し快適に動作すればいいかなと思います。


このように、いくつかの難点はあるものの、それらを吹き飛ばすほどの良さがあるためにEvernoteは私にとって欠かせないツールとなっているのです。

これからもアップデートを重ね、さらに使い勝手が向上することを切に願います。

2009年12月25日金曜日

高橋源一郎 2009『13日間で「名文」を書けるようになる方法』を読む


私は文章を書く機会が多いため、よく「文章力」や「文章の書き方」といった類の本に目を通します。

この本も文章力関係の本をAmazonで探していて見つけたものです。

題名には「名文を書けるようになる」とありますが、一般的な意味での「名文」はこの本を読んでも書けるようにはならないと思います。

小手先の方法論の話は全くありません。「ことば」とは何か、「文章」とは何か、我々は世界をいかにして認識しているのか、といった深い問いを学生とともに考えていくというスタンスの本です。

本書のはじめのところに書いてある一文が、著者の立ち位置を明確に示しています。

みなさん、こんにちは。今日から、あなたたちと一緒に、文章の勉強をします。わからないことがあったら、なんでも、訊いてください。わかることなら、答えます。わたしにわからないことなら、一緒に考えてみましょう。ひとりよりふたりの方がわかるかもしれません。」(p. 7)

さらに筆者は、「名文」を書くためには、「見る」こと、「考える」ことが欠かせないと説きます。

語彙をたくさん覚えたり、美しい、あるいは、カッコいい、人びとを感心させるような言い回しを使えるようになったりすることと、「名文」を書けるようになることとの間には、なんの関係もないのです。」(p. 118)

まず、「部外者」として「見る」ことです。(・・・)それから考えることです。その時、あなたたちは、なにかを「考える」ためには、ことばが、「文章」が必要であることに気づくはずです。」(pp. 118-119)

学生たちも最初は戸惑っている様子ですが、徐々に著者に引きずられて「「わたし」という牢獄」から抜け出すこと(パラダイム・シフト)に成功しているようです。

別に13日間の講義を通して、学生の文章力(言い回しや語彙)が向上したわけはないでしょう。しかし、明らかに彼らの文章は変わっていきます。一つの文章で、より多くの感情、情景、意味、思考を運べるようになっていくように感じます。それはひとえに、彼らがよく「見て」、よく「考えた」結果なのだと思います。

こなれた「文章力」も良いですが、一度立ち止まって「文章」とは何かを考えてみる必要性があると思い知らされました。

内田樹 2009『日本辺境論』を読む


最近売れっ子思想家としての地位を確立しつつある筆者の最新刊を読みました。

私が内田樹の存在を初めて認識したのは2007年に読んだ『下流志向』がきっかけでした。

それ以来、私は彼の一ファンとしていくつかの著作とブログを読んできました。
本作もいつも通りに示唆に富む内容も多々あるのですが、本人も認めているとおり同じ話を繰り返しているところもあり、フォロワーの一人としては物足りない部分があるのもまた事実です。

しかし、そのような態度に問題があると私は思いません。一人の人間が様々な事象について様々な意見を表明することよりも、様々な事象について一つの切り口から見えてくる景色を示すことのほうが重要であると思うからです。筆者は様々な業種の人々との付き合いから新しい知見を得ているようですが、それらに決して影響されすぎずに、ブレない持論の補強としてうまく配置しています。確かに同じ事を言っている部分も多いのですが、様々な事象についてブレずに同じように取り組むことができているのは素晴らしいと思います。

日本文化論は過去にいくつもの論考が発表されています。筆者の主張も先学に負うところが大きく、受け売りが多いです。

でも、新味があろうとなかろうと、繰り返し確認しておくことが必要な命題というのはあります。私たちはどういう固有の文化をもち、どのような思考や行動上の「民族誌的奇習」をもち、それが私たちの眼に映じる世界像にどのようなバイアスをかけているか。それを確認する仕事に「もう、これで十分」ということはありません。朝起きたら顔を洗って歯を磨くようなものです。一昨日洗ったからもういいよというわけにはゆきません。」(pp. 3-4)

本書の主張は難しいものではありません。端的に言うと、日本が「こう」なのは日本が辺境だからである、というものです。

中心への憧憬、「世界標準」との比較、起源からの遅れ、「きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める」といった態度が見て取れるのは、日本が辺境だからであると筆者は主張しています。この主張を支えるために、歴史をひもとき、脳科学者に尋ね、文学を参照し、身体論を展開させています。

論理的には綱渡りのような箇所もなくはなかったですが、私が最も好感を抱いたのは、筆者が「日本は・・・だから良い(悪い)」という文脈を採用していない点です。

「辺境性」という私たちの不幸(というよりも、私たちの「宿命」)は、今までもこれからも確実に回帰し、永遠に厄介払いすることはできません。でも、明察を以てそれを「俯瞰する」ことなら可能です。私たちは辺境性という宿命に打ち勝つことはできませんが、なんとか五分の勝負に持ち込むことはできる。」(p. 7)

日本文化というのはどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません。」(p. 23)

つまり本書は、日本文化とはこういうものであると述べるにとどめているのです。

下手な価値判断などせずに、潔く「俯瞰図」を提示する。そのような態度が私には心地よく感じられました。

2009年12月23日水曜日

歩くことと話すことの幸福な関係


私は歩くことが好きです。

歩くことによって、町並みや季節の移り変わり、土の匂いや草木の音など、様々なことを鋭敏に感じることができるからです。

一人で歩くのも良いのですが、誰かと連れ立って歩くのもまた良いものです。

そのときはもちろん会話をしながら歩くことになるわけですが、足を動かすことによって脳が活性化しているためか、普段なら話さないような事や考えてもいなかった事がふと口をついて出ることが多々あります。

そういう時は、自分がそのような事を考えていることに新鮮な驚きを覚えます。

私は人と会話をするのが好きなのですが、前もって用意しているものを話すことよりも、その場で瞬時に練りあげたものを話すことが多いです。批判的考察を欠いたそのような考えは曖昧なものであったり、不正確な表現であったりするわけですが、その場でしか生まれない感覚を有していることも多く、なかなか侮れないものがあります。

もちろん会話をする際には、その相手がどのような人物かという点が非常に重要です。

私は幸いにも周囲の人に恵まれているため、すばらしい人々と会話する機会が多くあります。

昨日も後輩と夜の田舎道を5時間にわたって散歩したわけですが、なかなか有意義な時間でした。

自らの内面との孤独な対話というものも時には必要なのでしょうが、このように信頼できる人にアウトプットすることによって自らの思考をまとめていくという過程も私にとってはすごく大切なものなのです。

2009年12月22日火曜日

「いのちの食べ方」を観る


昨日、DVDで「いのちの食べ方」を観ました。

劇場公開当初からすごく見たかった映画なのですが、どうしてもタイミングが合わず、ついに劇場では観ることができなかった作品です。


結論から言うと、なかなか良かったです。

この映画では一切のセリフとBGMをなくし、淡々と映像を見せる手法をとっています。
このような手法では、観る側を飽きさせてしまいかねないのですが、この映画では映像の力によってそのマンネリを防いでいると言えます。

内容を簡単にいえば、屠畜場や農園の作業風景映像です。それ以上でもそれ以下でもありません。ただ、感情を殺したような固定カメラの映像を淡々と流し続けるだけなので、面白くないと思う人も多いことでしょう。

しかし私は、この押し付けがましくない見せ方にこそ、この映画の良さがあると思います。「素材は提供するので、後は観る人が考えてください」という小気味の良い姿勢がそこにあるように感じるからです。

またこの映画では、就労者の食事風景と作業風景とを交互に見せています。このコントラストも私にとっては感銘をうけるものでした。いやがおうでも「生」と「死」について考えてしまいます。

「食べる」とは「他者の命を奪う」ことを意味します。

分かっているはずの事でも、まざまざと現実を見せられると様々な考えが頭をよぎります。

ただこの場合に大切な事は、他者の命を奪うことの是非を問うことではなく、我々の生活は他者の犠牲の上ではじめて成り立つものであることを知ることであると思います。

「無知」であることは時に罪になります。

そうやって考えていくと、身の回りにあふれる「当たり前」のことは、実は全く「当たり前」ではない、ということに気がつくのです。それぞれの来歴・由来があってはじめて眼前に姿を現すのだという事を肝に命じておくべきです。

このような事は、すでにたくさんの人が言っているけれども、常に確認しないと(私などは)すぐに忘れてしまいます。


ありがとうございます。
いただきます。

2009年12月21日月曜日

ブログをはじめるにあたって

この度、ブログをはじめてみようと思い立ったsmileと申します。

ブログをはじめる理由はいくつかあります。

1 文章執筆の訓練
2 情報の管理
3 情報のアウトプット

あたりが主な理由です。


  1. 自分の考えを自分の言葉で表現するというのは一見簡単なように見えてなかなか難しいものです。しかし私のような文章を書く機会が多い者としては、常にそこを意識する必要があるわけです。このブログを通して、つたない日本語表現を多少なりともましなものにしたいと思っています。
  2. 巷には非常に多くの情報があふれています。つまり現代は非常に情報のインプットが容易な時代であると言えるはずです。しかし逆に言えば、しっかりとそれらを整理して理解しなければ情報の洪水に流される危険もあります。そのために一つの試みとして自らが接した情報についてはここに記録することによって、自分なりの整理をしてみようと考えています。
  3. 情報の中にはインプットするだけでなく、それを咀嚼・消化し、自らの血肉となってはじめて価値を有するものもあります。インプットするのが容易であるからこそ、それを元にどのようなアウトプットをするかが問われていると言えるのではないでしょうか。思考を整理するためにも、一度考えていることをアウトプットする必要があると言えます。

上に記したような事が、ブログをはじめようと思った主な理由です。

これから細々と徒然の事を記録していこうと思います。