2009年12月25日金曜日

内田樹 2009『日本辺境論』を読む


最近売れっ子思想家としての地位を確立しつつある筆者の最新刊を読みました。

私が内田樹の存在を初めて認識したのは2007年に読んだ『下流志向』がきっかけでした。

それ以来、私は彼の一ファンとしていくつかの著作とブログを読んできました。
本作もいつも通りに示唆に富む内容も多々あるのですが、本人も認めているとおり同じ話を繰り返しているところもあり、フォロワーの一人としては物足りない部分があるのもまた事実です。

しかし、そのような態度に問題があると私は思いません。一人の人間が様々な事象について様々な意見を表明することよりも、様々な事象について一つの切り口から見えてくる景色を示すことのほうが重要であると思うからです。筆者は様々な業種の人々との付き合いから新しい知見を得ているようですが、それらに決して影響されすぎずに、ブレない持論の補強としてうまく配置しています。確かに同じ事を言っている部分も多いのですが、様々な事象についてブレずに同じように取り組むことができているのは素晴らしいと思います。

日本文化論は過去にいくつもの論考が発表されています。筆者の主張も先学に負うところが大きく、受け売りが多いです。

でも、新味があろうとなかろうと、繰り返し確認しておくことが必要な命題というのはあります。私たちはどういう固有の文化をもち、どのような思考や行動上の「民族誌的奇習」をもち、それが私たちの眼に映じる世界像にどのようなバイアスをかけているか。それを確認する仕事に「もう、これで十分」ということはありません。朝起きたら顔を洗って歯を磨くようなものです。一昨日洗ったからもういいよというわけにはゆきません。」(pp. 3-4)

本書の主張は難しいものではありません。端的に言うと、日本が「こう」なのは日本が辺境だからである、というものです。

中心への憧憬、「世界標準」との比較、起源からの遅れ、「きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める」といった態度が見て取れるのは、日本が辺境だからであると筆者は主張しています。この主張を支えるために、歴史をひもとき、脳科学者に尋ね、文学を参照し、身体論を展開させています。

論理的には綱渡りのような箇所もなくはなかったですが、私が最も好感を抱いたのは、筆者が「日本は・・・だから良い(悪い)」という文脈を採用していない点です。

「辺境性」という私たちの不幸(というよりも、私たちの「宿命」)は、今までもこれからも確実に回帰し、永遠に厄介払いすることはできません。でも、明察を以てそれを「俯瞰する」ことなら可能です。私たちは辺境性という宿命に打ち勝つことはできませんが、なんとか五分の勝負に持ち込むことはできる。」(p. 7)

日本文化というのはどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません。」(p. 23)

つまり本書は、日本文化とはこういうものであると述べるにとどめているのです。

下手な価値判断などせずに、潔く「俯瞰図」を提示する。そのような態度が私には心地よく感じられました。

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